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クリス・ムーン氏
プロフィール
1962年5月5日,イギリス,ウィルトシャー州のネザーハンプトン村で生まれる。
活発でわんぱくな少年で,農業に携わる父親を尊敬し、農業を手伝う。
母は父を手伝う以外は、村のさまざまなボランティア活動をしていた。
農業の大学に進学し、実地経験をつみながら農業経営を学ぶが、人生の意義を考え始め、社会への奉仕活動をしようと決心し、軍隊に就職する。
大学を卒業して軍に入るまでの5ヶ月間、薬物中毒患者のホームの手伝いとホームレスの人のセンターでボランティアに携わる。
軍隊では挫折、嫉妬などを含む様々な経験をし、5年後には軍隊を辞める。
二年間、金融関係のビジネスマンとして安定した生活を送るが、充実感を得られず、人のために役にたつことをしたいと退職する。
1993年、地雷撤去活動を行っているNGOの一つ、ヘイロー・トラスト(危険地域人命支援組織)の一員となる。
カンボジアで1年8ヶ月、現地の地雷除去員の指導をした後、モザンピークヘ移り3ヶ月後の1995年3月7日,地雷撤去活動中に触雷し、右手・右足を失う。
医師からは無謀だといわれたが、入院中に見たロンドンマラソンに翌年、義足で参加しようと決意する。
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宮副哲郎氏提供
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地雷を踏んで2ヶ月目に退院し、大学院に進学して"安全管理"について学び、修士号を取得。その後企業の安全管理に関するコンサルティングと、人生哲学やモチベーション・マネジメントの講演を行う会社を設立する。
事故後1年でロンドンマラソン(初のフルマラソン)を5時間29分で走る。この挑戦はマスコミに取り上げられ、カンボジアの地雷犠牲者支援のためのチャリティーランとして行われた。事故により地雷撤去はできなくなったが、マラソンを走るという手段で、地雷撤去のための費用を集めることが出来るようになった。
2ヶ月後、フランス,リヨンでのハ一フマラソンを走り、その翌月、スウェーデンのストツクホルム・ハーフマラソンに出場する。
1996年8月、事故後にアメリカで出会ったアリソンと結婚。
その年の秋には二ューヨークシテイマラソンを完走しタイムを20分短縮。
1997年4月、食料と水を背負つて250キロの砂漠を走るサハラマラソンを完走。
同年7月、200キロを四日間で走るオーストラリアのマラソンを完走。
その後、地雷会議の開かれていたオスロでフルマラソンの自己新記録を樹立、さらにダブリンのフルマラソンで5時間の壁を破る。
1998年2月7日、長野オリンピックで最終聖火ランナーとして開会式に出場、その2日後、「難民を助ける会」主催の箱根―東京間120キロのチャリティマラソンに参加、15時間45分でゴール、その3時間後には最悪の状態になった義足をつけて都内72力国の大使館を地雷廃絶を訴えて走る。
4月にはフローラロンドンマラソンを走り、9月にはアウトバック・チャレンジ(オーストラリアの不毛の未開拓地域と山岳地帯を250キロ走る、地雷撤去支援の基金を募るウルトラマラソン)を完走。
1999年5月には17日間かけてのカンボジアでの700キロのランを完走。
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宮副哲郎氏提供
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7月には、バッドウォーター・デスバレー・ウルトラマラソン136マイルを53時間で完走(制限時間60時間)。このランは世界中で最もタフで、最も長く、最も暑く、最も険しいランといわれている。
2000年5月、阿蘇カルデラスーパーマラソンに参加、高低差500Mもある難コース100キロを13時間16分25秒で完走。
7月には、再度バッドウォーターデスバレーマラソンに参加、300マイルを完走。
最近はマウンテンバイクにも挑戦している。
彼が義手・義足で過酷なマラソンを走るのには、四つの目的がある。
一つは、自分の走る姿を見て、地雷の恐ろしさ、地雷被害国の人たちの苦しみをたくさんの人たちに知ってもらい、今なお地雷を製造し続けている国があるという事実に気づいてほしいから。
二つ目は健常者にも、障害者にも、自分が本気にさえなれば、自分や周囲が決めた限界を超えて、何でもできるのだということを知って欲しいということ。
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宮副哲郎氏提供
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三つ目は子供達に、人生は決して公平ではないということを知ってもらいたいということ。つらいことに向き合った時に、どう生きていくかが大切で、自分だけが損をしているように感じて、運命に悪態をついたって、誰も助けてはくれないことに早く気づいて欲しい。不公平な状況を乗り越えるには強い反骨精神が必要だということを、子供達に伝えたかったから。
四つ目は自分自身のため。自分の限界への挑戦を通して、より深い喜びと、生きる勇気を得るためである。大きな目標を掲げて、自分の納得するまでやってみたいから。
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